ブログを引っ越します

ブログを引っ越します。
新しいブログは以下のURLです。

http://ameblo.jp/sugaguri/

このブログそのものをもって引っ越しはできなかったので、こちらも残しますが、今後の記事は上記ブログで更新します。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

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初散歩

昨日の一カ月検診で母子ともに健康とのお墨付きをもらったので、さっそく本日から、娘の散歩を始めてみました。
散歩といっても、短時間。
家の周りをちょろっと歩くだけです。
生後4週目ころから、1日に一度、あたたかい時間にベランダには出て外気浴はさせていました。
赤ちゃんに適度に刺激が与えられるし、昼夜の区別がつきやすくなるということで、続けてきました。
で、今日はいよいよ外に出てみた。

のですが、家を出る前までは起きていたのに、抱っこしたら即寝てしまった・・。
これじゃあ、目があいてないから刺激が少ないじゃん・・。
でもいっか。耳からはいろんな音も聞こえるだろうし。
気持ちよく寝ている子どもを見ながらの散歩もいいものでした。
なにより、私自身の気分転換にもなりました。
外に出られなかった一カ月。
ぜいたくとは思いましたが、けっこうつらかったのです。

子育ては、大変なこと、とまどうことが多いけれど、子どもは着実に成長し、驚異的な早さでさまざまなことができるようになっていくのだと感じています。
今、この瞬間は、今しかない。
見逃がさないように、こぼさないように、暮らしていきたいものです。


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1カ月検診

昨日は、娘の一カ月検診でした。
一カ月検診は、基本的に生んだ病院で受けることになっているので、日医大へ。
Kさんは出張中でいないため、実家の母にお願いして、一緒に来てもらいました。
私の検診も同日で予約していたからです。

病院についたら、あれま、自分の診察券がない!
Kさんに入院手続きをしてもらってから、返してもらうのを忘れていたのでしょうか・・。
子どもの自費カルテを作ってもらうところで言ったら、すぐに仮の診察券を発行してくださったので事なきを得ましたが。

娘は、
体重3160g→4290g
身長50㎝→53㎝
など、順調に成長してくれていました。
4290g。生まれたときより1キロ以上増えていた体重。
どうりで最近、ずっしり重いのですね。娘よ。
でも、私にとっては、とても幸せな、重さです。

計測の後、小児科医の診察がありました。
母子手帳に気になることを事前に書いて提出していました。ちなみに書いたのは以下の三つ。
「鼻づまり」ときどき喉もぜろぜろしている
「いきみ」うんちとおならが出したいのか、時々いきみすぎてはいたり泣きだしたりする
「便秘」うんちが出にくいときがあるが便秘か?

どれにも丁寧に答えていただきましたが、結果的には、気にすることはない、とのことでした。
うんちも、3日間くらい出ないと便秘というそうで。
そうですよねえ。娘は、少量ながらも毎日数回出ているし、数回に一回は大量だったりもするんで。
(下ネタすみません!)。

ほか、しゃっくりがよく出るんですけど、とか、いろいろ聞いたけれど、どれも気にするほどのことではないそうです。そう言ってもらえて安心しました。

私自身の診察では、二人目を考えるときは、妊娠前に血液検査を受けるように言われました。
ヘパリン治療をした人では数値が改善する場合もあるからだそうです。
ステキ。
10カ月打ち続けた自己注射が、体質改善につながってくれていればと思いました。
ヘパリン自費だから高いし。
子宮の戻りも順調で、入浴も許可され、ほっとしました。

娘は、往復のタクシーでも、病院でも、ほとんど寝ていて泣きませんでした。
驚異的。
家ではギャオーっと泣いているのに。
ものすごい声量なので、あの声で病院で泣いたら、他の患者さんがびっくりしちゃうよなあ。。とちょっとドキドキしていたのですが、内弁慶さんなのでしょうか。

それでも刺激が多かったので、夜はよく寝てくれるかなーと思っていました。
結果はいつもとさして変わらず。
22時就寝→1時→4時(その後ずっといきみつづけて朝を迎える)
というパターンでした。
明け方からいきみはじめるのが彼女のスタイルのようなのですが、こっちは眠れないので大変です。
ですが、その前までは、3時間ずつまとめて寝てくれるようになったので、すごく助かっています。
ですから、10時に一緒に寝てしまえばいいのです。
この時期は、赤ん坊に合わせてしまうのが、コツなのでしょう。


そうそう、病院からの帰りのタクシーで、いろいろな思いがわきあがりました。
他の病院から転院してここに通い始めたときのこと。
再検査をしたら、いろいろな数値がけっこう悪くて、ショックを受けたこと。
妊娠して、治療をしたのに流産し、絶望的な気持ちになったこと。でも胎児の染色体異常だったことがわかり、不育症が原因ではないかもしれないと、少し希望を持てたこと。
その後まったく妊娠しなくなり、高温期に飲むアスピリンを処方してもらいに、ただただ通院を続けたつらかった時期のこと。
毎月タイミングをとっても生理がきて、生理がくるたびに落ち込み、精神的にズタボロだった時のこと。
不妊治療をしたこと。
タイミング療法ですぐに妊娠し、初期と臨月は毎週、そのほかは2週に1回通い続けたこと。
これまでのことが、頭の中をかけめぐりました。

私は、検査結果の数値がいくつかひっかかっていることがわかったとき、けっこうショックで、先生に
「子ども、産めるでしょうか」
と聞いてしまいました。
先生は
「なんともいえません」
と。
そりゃそうですよね。人によって病状はそれぞれ。まだ保険適応もないほど手探りの治療法の不育症。
だから、私は、その後数値のことをあまり気にしないようになりました。
今も、自分が何の項目でひっかかっていたのか、覚えていません。
数値は悪くても、それは事実だから仕方がない。
前向きに、今できることをするしかない。
そんな感じでただただ頑張ってきた、というのが正直なところです。

これからの子育ては、きっと苦しいことも楽しいこともたくさんたくさんあると思います。
いろいろ悩んだり、苦しんだりすることは、治療のときよりも多いかもしれないけれど、あの治療を経て、産声が聞けたことを自信にしてもいいかなと、ちょっと思っています。

病院を後にしながら、考えたことでした。

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生後1カ月

娘が誕生してから一カ月がたちました。
この一カ月、手探り育児で新米かあさんはよろけまくり、何度もどうなることやらと思いましたが、子どもはすくすくと成長してくれて、本当に感謝です。

不育症と診断されてから、長い間通院を続け、やっとこ妊娠が継続できそうとなったら、無事に生きた子どもを産むことが目標となりました。
というわけで、産んだ後のことは、ほとんどなにも考えていなかったんですよね。
いろいろ考えていて、もしダメになってしまったら、その時がつらいから、と自己防衛していた部分もあります。

そんなこんなで、無事に生まれてみたら、心の準備ができていなかったのでとまどうことばかり。
まず、「新生児はほとんど寝ている」とよく聞くけれど、うちの子ほとんど寝ないじゃん!とか。
退院したらいきなりいきみはじめて、病気かと思ったら「新生児いきみ」というのらしく。
鼻づまり、おっぱいのんだあとはく、しょっちゅうしゃっくりが出る、などなどなど。
心配し始めたらきりがないくらいいろんなことがありました。
日中子どもと二人だけで過ごしていると、ちょっとしたことがすごく心配になって、産後のホルモンバランスの崩れも手伝ってか、かなりマタニティブルーになった時期もありましたが、今は周りの人たちの助けによってなんとか復活しつつあります。

先週の月曜日には、市の助産師さんの訪問があり、子どもの体重は出生時の3160gから、なんと3900gにまで増えていました。
嬉しいことです。
病院での指導に従い、夜だけ少し足していたミルクでしたが、中止することになり、期せずして完全母乳になりました。期せずして、というのは、とくに完母にこだわっていたわけではなく、子どもが満足するなら混合でもいいし、と適当に考えていたので。
頻回授乳で夜ふらふらになる、と言ったら、添い乳なるものの方法を教えてもらい、だいぶらくになりました。

子どもはまだうなっているけれど、「理由がわからないのに泣く」ということがあまりなく、助かります。
おむつかおっぱいか、あとは眠いからちょっとぐずるか、天気が悪くて機嫌が悪いか、など、観察しているとなんとなくわかるようになってきました。
こうやって赤ん坊は、母親を育ててくれているのだなと日々感じます。

明日は一カ月検診。
初の外出となります。
いろいろ心配はあるけれど、あんまり構えすぎず、久しぶりの外を、娘といっしょに楽しめればと思います。


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出産に至るまで(仕事と治療)

不育症と診断されてから、長期にわたって治療等してきましたが、その間、私は仕事を続けてきました。今回は仕事について書きたいと思います。

大学院を卒業してから、私は女性雑誌(ファッションではなく、生活総合誌)の編集部に入りました。
それから一貫して編集者として仕事をしています。
最初のその職場は、もちろんですが雑誌の性格上女性社員が多く、かつ、同世代が多い職場でした。
楽しかったですが、なんせ適齢期。
どんどん順番に結婚していきました。
私がいた会社は、結婚しても仕事を続ける人がほとんど。
ですから、結婚後は皆、仕事を続けながら、妊娠・出産をしていきました。
私も結婚し、その後に妊娠しましたが流産。
この職場では、そうした経験をした人がほとんどいなかったので、皆とても心配して下さいました。
ありがたいと思いながらも、その後、同僚が産休・育休に入った時、その仕事をフォローしなくてはならず(中小企業ですから、すぐに代替要員などは採用せず、今いる社員で対応していきました)、それが度重なる中で、精神的にきつくなっていきました。
結局、この職場で流産を3回経験し、周りの環境(同僚の妊娠・出産。常にお腹の大きい同僚がいる中で働くのはなかなかきつかったのです)に適応することも難しいと判断した私は退職します。

実は、日医大の前にかかっていた大学病院は、この職場からバスで一本でいけるということも、選んだ理由の一つでした。
今となっては、交通のことなど気にせず、最初から日医大に行けば、3度目の妊娠で出産できたのではないか、という思いもないではないですが、仕事をしながら治療を続けるには、なるべく近い場所で、というのもポイントとなるので、いたしかたなかったように思います。

正社員の仕事を辞めましたが、学生時代の先輩から声をかけていただき、他の出版社でフルタイムのアルバイトとして働き始めました。
病院も日医大に転院し、通院は頻繁になりましたが、先輩の理解のおかげで、治療と仕事を両立することができました。しかし、ここでも4度目の流産。さすがの私も、仕事を続けるかどうか迷いました。
ある受診日に、担当のI先生に思わず「仕事をやめた方がいいのでしょうか」と聞いてしまったことがあります。I先生は、「辞めることも一つの選択肢だとは思うけれど、仕事を辞めて何もしないことがストレスになってしまう人もいる」と言ってくださいました。なるほどそうだよなあ。自分はどっちのタイプだろうと、冷静に考える機会となりました。
ただ、毎朝夕のラッシュの中での通勤や、会社の入ったビル内での猛烈に寒い空調などのことを考えると、体への負担は否めないような気がしました。そこで、結局退職を決意。ただ、仕事を全く辞めてしまうのは辛く、その後はフリーランスの編集&ライターとして仕事することにしました。勤めていた時のつながりから、少しずつ仕事をいただけるようになり、その後一年間はフリーとしての土台づくりをした時となりました。
一年間、妊娠できずにあせったのですが、もしかしたらこの一年は、フリーランスの仕事を定着させるための猶予だったのかもしれない、とも思います。
妊娠してからも、フリーだったので病院の時間なども優先的に考えることができました。会社勤めをしながらの通院では、どうしても時間が気になり、特に待ち時間の長い大学病院の受診は心身共に疲れ果てましたが、フリーになってからはそうした精神的負担がなくなったことがよかったように思います。
もちろん定収入はなくなりますから大変ではありますが、それでも、不育症の治療はほぼ全額自費のため、お金がかかります。その費用を稼ぎだすためにも、仕事は続けてきてよかったように思います。
ただ、もし今後2人目などを考える際には、やはり費用の面で負担感を感じることは否めません。せめて薬だけでも保険が適応にならないだろうか。そのために自分に今できることはないだろうか、と常に考えています。

出産後1カ月は育休とし、休みますが、2カ月目からはすでに仕事のスケジュールが入っています。フリーというのはこういう部分が大変だと思います。ですが、妊娠・出産も、今の仕事のかたちも、すべては自分で選択してきたこと。娘のためにも、賢く働ける母親でありたいと思っています。

次回からは、育児についても少しずつ触れていきたいと思います。私にとっては、不育症でも子どもを産むということが、一つの高い高いハードルであったわけですが、今そのハードルを越えてみて、それまでも大変だったけれど、育児というのもなかなかに大変、そして面白いものだと感じています。新米母さんは失敗ばかりですが、分娩台で産声を聞いた時の感動を忘れずに、進んでいこうと思っています。


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出産に至るまで(4)

不育症患者となって、妊娠できるかどうか、そしてその妊娠が継続できるかどうかは、治療のみならず、周りにいる人たちの支えが大きいことを日々感じてきました。今回はそのことを中心に書きたいと思います。

まず、私と一緒になってこの病気と闘ってくれたのは、ほかならぬ夫のKさんです。
結婚して丸5年。結婚した翌年からほぼ毎年流産を繰り返す私を、常に支えてくれました。
これは、かなりしんどいことだったろうと思います。
忘れもしない、最初の流産のとき。
私はソウハ手術が必要だったため、入院しました。
麻酔をして手術をし、終わってから病室にもどる際、ソウハ手術のせいなのか、子宮収縮の速度が速いからなのかわかりませんが、ものすごい腹痛に襲われ、ストレッチャーの上で七転八倒しました。
麻酔が切れる途中だったので自制心もきかず、本当に、「のたうちまわる」という感じでした。
病室のベッドに戻ってからも状態は変わらず、痛み止めを打ってほしいと頼んでも、規定量をすでに打ってしまっているので、追加はできないと言われ、絶望的な気持ちになりました。
その間、Kさんは私につきっきりで腰をさすり、訴えを聞いてくれていました。
Kさんもきつかったと思います。
2度目の手術後も発熱などをし、大変でした。
それでも支えてくれました。

(ちなみにこの手術による激痛は、大学病院でのソウハ手術後には見られませんでした。
不思議に思い医師にきいてみたところ、最近では、子宮内を無理にきれいにしようとはせず、だいたいのところで止めて、あとは自分の力で血の塊などを排出していく方法をとっているところが多いそうです。私が最初に手術を受けた病院では、昔ながらの、かなりの部分をむりやりはがす、という方法をとっていたため、激痛にみまわれたと思われます。)

手術が終わって退院してからも、ふいに泣きだす私にいつもよりそい、ただただ泣かせてくれて、話を聞いてくれました。
私は、精神的にも、そして家事など、物理的にも一生懸命に支えてくれるKさんを見て、どうしてもこの人の子どもが産みたい、と思いました。
その思いが、これまでの治療の大きな原動力だったような気がします。
病気自体のことを調べたり、病院を探したり、という部分も常に二人で一緒にしてきました。
そして、日医大に転院してからまったく妊娠しなくなってしまったときには、不妊治療についても一緒に検査を受けてくれました。
不育症の治療は、ほぼすべてが自費であることからもわかるとおり、これといった、確定的な方法が確立されているわけではありません。だから、私たち患者は、この方法でうまくいく、という100%の保証はなしに、それでもチャレンジしていく、という精神的にも肉体的にも強さを求められます。
これを一人でやっていくというのは、かなりきついと思います。
常に一緒に走ってくれる、休憩した時に支えてくれるパートナーの存在がいかに大きいかを感じました。
Kさんは、毎回私がつらい思いをしていることに、心痛めていました。でも、妊娠できるのに子どもが育たない、という状況をどうしてもあきらめきれない、と話してくれたことがありました。
私は、不妊状態になったときに、正直、あきらめたいとおもったこともありますが、あきらめなくてよかった、と今は思います。

私たち夫婦の家族も陰ながらいつも支えてくれていました。
Kさんは長男です。
結婚2,3年目だったでしょうか。年末年始の休みに帰郷した際、義父から
「子どもはどうするんだ?」
と聞かれました。
私たちはまだKさんの家族には流産や病気のことを話していませんでした。
そのときも
「ほしいと思っているんですが、なかなか」
と、適当ににごしました。
その後、やはりカミングアウトしたほうがよいかと思い、しばらくしてから義母と義妹と話しているときに事実を伝えました。すると2人は
「体を大事に。それでもチャレンジしたいというのなら応援するから」
と言ってくれました。嬉しかったです。
私自身の家族は、度重なる私の流産に、
「もうあきらめたほうがいいのではないか」
と言いました。娘が苦しむのを見ていられない、という感じでした。
申し訳ないと思いながらも、あきらめなかった私たちですが、今回の妊娠が継続する過程では、一緒に水天宮にお参りに行ってみたり、妊娠の経過をこまめに伝えたりということで、多少は今までのお詫びにもなったかなと思います。
そして、娘が生まれてきてくれてからは、両家の両親ともにたいへん喜んでくれて、かわいがってくれます。
そういう姿を見ていると、これまで支えてくれたことに感謝し、そして子どもが生まれてきてくれて本当によかったと思いました。

次に、病院の医師・看護師の方々の支えが大きかったことを書かなくてはなりません。
日医大に転院して驚いたのは、どの先生もひじょうに丁寧で、親身になって話を聞いてくださる、ということでした。
大学病院は常に混んでいて、多くの患者を診なくてはならないはずなのに、こちらの質問にも誠実に答えてくださるし、説明もわかりやすく、納得のいく治療を選べました。
特に、最初からお世話になった女性のI先生には、不安な気持ちや、仕事のことをどうするかなど、実際の病気のことだけでなく、精神的な弱音もはいたことがありましたが、先生自身の考えを話してくださり、とても支えられました。
実際に出産で入院し、病棟の看護師さん、助産師さんにもたいへんお世話になりましたが、どの方もとても感じがよく、いつ何をどこで聞いても適切に対応して下さり、初めての育児への不安はかなり払拭されました。
退院後のフォローもあり、「わからないことがあればいつでも電話してください」と言われたので、娘のへそのおがなかなかとれず、出血していて心配だったので電話したところ、丁寧に対応してくださいました。
妊娠・出産に関する病気の治療には、医師と患者の信頼関係がどれだけとれるかによって、その治療結果が大きく左右されると感じています。
どの病気でもそうだとは思いますが、特に妊娠・出産については、作用が大きいと思います。
以前にも書きましたが、私は医者が合わずに転院しているので、そのことを身にしみて感じるのです。
不育症患者は、とてもナイーブになっています。そこに、適当な物言いをしたり、おざなりな対応をされては、患者の心は一気に崩れてしまいます。そのことをきちんとわかって、終始対応してくださった日医大のスタッフの方々には、いくらお礼を言っても足りないくらいです。

また、他にも会社勤めをしてたときの同僚や上司、そして学生時代からの多くの友人も、支えてくれました。
この病気のことは、あまり多くの人には公表していませんでした。
それでも親しい仲間には話をし、ときにはつらい思いを聞いてもらったりしました。
悩んでいるとき、愚痴を聞いてもらってすっきりし、前を向けるようになったこともありました。
今回、無事出産できたことをメールで知らせようとしたとき、
「この人にも、あの人にも知らせなきゃ」
となり、自分がどれだけたくさんの人に支えられ、今回の出産ができたかを思い、感謝しました。

こうして書いてみると、病気の治療とひとことでいっても、とても多くの人たちの助けがあってこそ実現できたと感じます。
この経験を忘れずに、次は私自身も何か人の力になれればと思います。

次回は、治療中の仕事のことなどについて書きたいと思います。

(つづく)

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出産に至るまで(3)

今回は、妊娠後期のことについて書きたいと思います。

抗リン脂質抗体症候群や、胎児染色体異常により、4度も流産をした自分が、妊娠後期、つまり妊娠8カ月に突入できることは、以前では信じられないような、奇跡的なことでした。
毎日朝晩にカプロシンの自己注射を続け、アスピリンを一日一錠飲み、2週に一度は妊娠前から通っていた鍼灸に通い、とできるだけのことはしました。
妊娠8カ月、28週に入り、胎児の体重が1000gを超えると、早産で生まれてきても今の医療であれば生存が可能になる、という記述をHPで読んでいた私は、この28週を超えることが一つの目標でした。
そして、28週を超えたときには、32週を超えれば、NICUに入る可能性は低くなり、NICUのない病院で出産予定の私は、赤ちゃんと一緒に入院生活をおくり、退院するためには、この32週が次の目標になりました。

7カ月まではほぼ標準通りに成長していた胎児でしたが、後期にはいると、頭が大きく、体が細く、足が短め、というバランスでずっと推移しました。
また体重も、若干少なく、医師からは
「個性の範囲ですから大丈夫ですよ」
と言われていたものの、HPなどで「標準値」を見てはちょっと不安になっていました。

8、9カ月ころには、市主催のファミリー学級と、病院主催のバーススクールに参加しました。
ファミリー学級は合計2日間。
1日目は妊婦向けの栄養や歯の健康の話、妊婦体操など。
2日目は夫婦向けで、パパの心得や、赤ん坊の泣きについて、おっぱいについて、沐浴実習などがありました。
しかし、ファミリー学級は、出産よりもかなり前であり、内容は忘れてしまうことが多かったです。
そして、肝心の「分娩」の詳細については何一つ触れられなかったため、
「そこが知りたいのにー」
と言っていたら、Kさんに
「じゃあ、病院のバーススクールに行ってみたら?」
と言われました。
病院は少々遠く、お腹も大きくなるとおっくうで行く予定はなかったのですが、初めての分娩に挑めそうだということもあり、予約をして参加しました。
ここで私は、多くの大切な友人を得ることができました。
もちろん講座の内容もわかりやすくてよかったですが、私にとっては同じ病気でありながら、妊娠を継続している友だちを得ることができ、とても励みになりました。

臨月に入ったころの胎児の推定体重は2400gしかなく、今度は保育器にはいらなくてよい、2500g超えが目標となりました。
妊娠10ヵ月になると、健診は毎週になります。
体重はなんとか増え続けてくれて、予定日前日の健診では、2900gと言われ、少しほっとしました。
また、頭と体と足のバランスもだいぶよくなり、先生からも
「バランスよくなってきましたね」
とエコーを見ながら言ってもらえてほっとしたのを覚えています。

臨月に入ってからは、意識的によく歩くようにしました。
妊婦は、出産に備えて体力をつけなくてはいけない、と聞いていたからです。
普段、編集やライターの仕事をしている私は、取材にでかける以外は在宅での仕事が中心となり、どうしても運動不足になります。
毎日朝夕に飼い犬の散歩を、合計で40分ほどしていますが、2時間には程遠い。
というわけで、天気のよい午前中は、仕事が終わってから散歩をするようにしました。
目的のない散歩というのはなかなか大変でしたが、それでも1時間弱歩きました。
これはやってよかったと思います。
分娩に25時間かかりましたが、結局最後は体力だなと実感したからです。

「私に子どもは産めないのかな」
と、何度も何度も弱気になりながら、それでもKさんと一緒に頑張り、なんとか臨月までお腹で赤ちゃんを育てることができました。
そして、先にも書いたように、実際の分娩に挑みました。

病気を持たない人にとっては、結婚すれば妊娠し、出産できるということはごく自然なこと、それほど困難なことではないでしょう。
私も結婚した当時はそう思っていました。
しかし、自分はそうではないグループの人間なんだということを知ると
「なんで私が?」
と思いました。
私は何か悪いことをしたのだろうか、と悩み、やり場のない怒りや悲しみを感じました。
そして度重なる流産によって受ける精神的なダメージはとてつもなく大きく、幾度となく妊娠を諦めたい、と思いました。
けれど、あきらめなかったのは、夫であるKさんの支えが大きかったように思います。

次回は、Kさんのこと、妊娠中の仕事のことなどについて書きたいと思います。

(つづく)


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出産に至るまで(2)

今日は不妊治療から妊娠、そして妊娠中期ころにかけての私の精神状態などを中心に書いてみたいと思います。

日医大に転院した私たち夫婦は、不妊治療の第一ステップ、タイミング療法を始めました。
最初のクールで、排卵予定日近くになってから病院に通い、卵子の成長状態を観察。
より正確な排卵日の予測をしました。
そして、「今日が排卵日だろう」という日。
基礎体温はすでに最低温から高温へ移行していたのですが、その途中で排卵が起こるようでした。
「あと少しだけれどなかなか排卵していない状態」
だったため、排卵を誘発する注射を打ち、その日にタイミングをとりました。
そしたら、その周期で妊娠。
どうも私の基礎体温は、それ以前は最低温の日に排卵が起こっていたのに、高温期へ移行する途中に排卵をするという状態に変わっていたのです。ただ、それに気づかず、タイミングが合っていなかったようです。
このタイミング療法を診てくださっていたのは、今覚えば娘をとりあげてくれたM先生でした。
M先生は受精卵の前段階の娘から、人としてこの世に生まれてきてくれたときを支えてくれた、いわば命の恩人のような方ともいえそうです。

そうして妊娠を確認。
4wくらいにあたる、2009年2月18日に病院へ行き、そこでも確かな妊娠反応を確認しました。
私は今でも覚えています。
その日、担当だったO先生が
「おめでとうございます」
と笑顔で言ってくださったのです。
私は、妊娠がわかってから、医師に「おめでとうございます」と言われたのはそれが初めてでした。
嬉しかったのに、同時に私の口からでたのは
「今回はうまくいくといいんですけど」
という後ろ向きなものでした(汗)。
とにかくその日から、カプロシンの自己注射を始めることになりました。
アスピリンも継続して一日1錠服用していきます。

妊娠初期の、11wまでは毎週病院に通い、赤ちゃんの成長を追いました。
心拍を確認しても、私はそれまでの流産が心拍確認後のこともあったので、少しも安心できませんでした。
それでも、3月18日の受診時に
「次回までに母子手帳をもらってきてください」
と言われた時は、初めてのことでびっくりし、そして嬉しかったです。
3月19日に市役所へ行き、母子手帳をもらいました。
この妊娠がうまく継続してくれるのかどうかは、まったく未知数でしたが、それでも生まれて初めて母子手帳を手にできた喜びは、今でも覚えています。
また、4月3日、10wの受診から、それまでの女性診療科ではなく、産科になったときも、ひとつ階段を昇れたような気がしました。

妊娠13wからはそれまでの毎週の受診が2週に1回になりました。
そして13wからは、それまでの膣内エコーから、お腹のエコーにかわりました。
私にとって、お腹からあてるエコーは憧れでした。
適度に週数が進まないとしてはもらえない健診だからです。
だから、担当のI先生から
「今日からここでお腹から診ましょう」
と言ってもらえた時は、嬉しかったです。
普通の妊婦さんは、安定期に入ると4週に1回の健診のところ、私はアスピリンの服薬と、カプロシンの注射をしていたこともあり、血液検査をして異常がないことを確認しなくてはならず、そのようなこともあって妊娠9カ月までは、この2週に1回の受診が続きました。

つわりはわりとひどく、だいたい6~7カ月くらいまで続いたでしょうか。
吐くというよりは、常に吐き気がある、という感じでした。
食べられるものも減り、ピーク時は2週間で3キロ体重がおち、先生から
「3キロ以上減ると、血液凝固のリスクもあるので、入院して点滴なんだけど・・・」
と言われたのですが、入院したくなかった私は
「先生大丈夫です。まだ3キロギリギリですし、次回までに増やしますから!」
と力説(?)し、なんとか入院せずにすみました。

5月17日には戌の日ということで、近所の水天宮へおまいりに。
そして5月19日には初めて胎動を感じることができました。
それまではお腹のなかの赤ちゃんが生きているのかどうかを確認するすべは、病院でのエコー検査しかありませんでしたが、赤ちゃんの動きが感じられるようになると、毎日それで、お腹の子が生きていることが確認でき、とてもうれしかったことを覚えています。

妊娠して出産することが、私にとってはとてつもなく大変なことです。
それは、妊娠がわかって嬉しい、という気持ちと
「今回もまただめになるのではないか」
という不安な気持ちが常に自分の中に同居し、その双方が増えたり減ったりしていたことからもわかります。
病院での受診時も、内診台に上がり、先生が膣内エコーをするたびに、
「今回は大丈夫だろうか。生きていてくれるだろうか」
とカーテンのこちら側でドキドキしていました。
先生が
「赤ちゃん元気ですよ」
と言ってカーテンを開けてくださると、泣きたくなるくらいほっとして
「ありがとうございます」
と毎回言っていました。
廊下の待合室で、お腹の大きな妊婦さんを見ると
「自分もいつか、ああいうふうになれるかな」
と思っていました。
そして、そういう妊婦さんが、使用済みのシリンジ(カプロシン注射に使う注射器で、使用済みのものは病院でひきとってもらえる)を看護師さんに渡しているのを見ては、
「あ、私と同じ病気だ。でも赤ちゃんあんなに大きくなってるんだ!」
と、内心とても励まされました。

妊娠初期は特に精神的に自分を立ち上がらせ続けるのが大変だったように思います。
普通の妊婦さんの情報はあまり役に立たないことがわかっていたので、雑誌もHPも本もほとんど見ませんでした。
私の心配はよそに、赤ちゃんは初期から中期にかけて、順調に大きくなってくれました。
その姿に支えられて、頑張れた気がします。
そうこうするうちに、いよいよ妊娠後期に突入していきました。

(つづく)

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出産に至るまで(1)

抗リン脂質抗体症候群ながら、今回無事出産にこぎつけたのは、よい病院にめぐりあえたことが大きいような気がしています。
そこで今回から、私のこれまでの病気・受診の経緯などを書いていきたいと思います。


私は2004年からこれまで、4回の流産を経験しています。
毎回、だいたい9~10週の初期流産。3,4回目は心拍確認後でした。
4回の流産のうち、最初の2回は地元の市民病院でしたが、そこの産科の医師からは、2度目の流産後、不妊治療クリニックを紹介されました。
「流産も不妊の一種だから」
と言っていましたが、私たち夫婦は、違うのではないか、と思い、必死で調べました。
すると、「不育症」という、流産を繰り返す病気があることがわかり、専門医のいる病院も少ないけれど都内にいくつかはあるということがわかりました。
そこで、日医ではない他の大学病院が、当時の私の勤め先からの交通の便がよかったこともあり、市民病院の医師に、そこへの紹介状を書いてもらいました。

通い始めた大学病院には、不育症専門の医師は2人いましたが、そのうち、部長ではないほうの医師にお世話になりました。きちんと受け答えもしてくれる医師でしたが、そこで妊娠するも、漢方だけの治療では育たず、結局心拍確認後に流産しました。
その後、流産という結果を受けてか、私は強制的に担当医師がそれまでの医師よりランクが上の部長にされてしまったのですが、この医者がコミュニケーションがひじょうにとりづらく、精神的においこまれてしまいました。
私がいろいろ質問しても、鼻で笑うような感じで、「そんなことは気にしなくていい」というのです。
この病院の治療方針は、基本的に妊娠してからアスピリンとヘパリンの投与でした。
しかし、私はここで若干疑問を抱き始めます。
血流が悪い病気ということはわかった。
では、子どもが胎内にやどったということがわかってから治療を始めたのでは、その最初の重要な段階時は血流が悪いままの環境になるのではないか、という疑問です。

そこで、また私はいろいろと調べた結果、日本医科大付属病院(以下日医大)では、高温期からのアスピリン投与をしていること、妊娠が認められたらすぐにヘパリン治療を始めることがHPに明記されていました。
私はこの治療法が理にかなっているように感じました。
そこで転院を決意します。

ですが、もともとかかっている大学病院の、あの感じの悪い医師に「紹介状を書いてくれ」というのも嫌で、結局検査結果だけをすべてもらい、次回予約時からは行かなくなる、というとんづらをしました。
紹介状なしでしたが、3500円を払って日医大で診察をしてもらい始めました。
検査結果を持って行きましたが、日医大ではより詳しい検査をしてくれました。
そこで、3つくらいの項目が陽性で、私は抗リン脂質抗体症候群であること、数値からして、高温期からのアスピリン、妊娠確定時からのヘパリン療法が適切であるということを、教授から言われました。
この病院では、初回は不育症治療でも有名な教授に診断していただき、その後はチーム医療の医師たちにお世話になる、という形でした。

日医大に転院してから妊娠し、ヘパリン注射の練習入院(2泊3日)もして、チャレンジしはじめましたが、流産。
しかし後日、胎児の染色体異常が認められ、これは不育症のための流産ではないかもしれない、と希望がもてました。

が、その後一向に妊娠自体ができなくなってしまいました。
理由はわかりません。
アスピリンだけは処方されていたので、毎回、アスピリンがなくなるたびに薬だけもらいに病院に行く、ということが1年ちかく続きました。
タイミングをとっても生理がくることにストレスを感じ、私は
「もう妊娠はあきらめたい」
と泣いてkさん(夫)に訴えたときがありました。
取り乱す私に、Kさんは落ち着いて
「今できることを考えよう。今なにが僕たちにできるかな?」
と言ってくれました。
それで私は
「先生に相談してみたい」
と言い、Kさんは
「じゃあ、一緒に病院に行ってみよう」
と。
それで2人でずっとお世話になっている日医大のI先生に相談しました。
先生は、
「普通は2年以上妊娠できいない夫婦に不妊治療は始めるのですが、Sさんはずっと妊娠できていたのに、1年間ぱったりできなくなったので、治療を開始してみましょう」
と言ってくださいました。
そこで、私たち夫婦は、不妊治療の基本検査を受け、実際の1ステップ目、タイミング治療から始めることになりました。

(つづく)


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生まれました(40w2d)

10月26日、予定日2日遅れで無事出産しました。
3160gの女の子でした。

24日にフライング受診。
25日の午前1時に本格陣痛(とその時はおもった)が始まり、午前4時に病院に電話。
そしたら、フライング受診をしていたこともあってか
「もっと痛みが強くなったら連絡してください」
と言われた(涙)。

結局その後、痛みが少しまばらになる。
午前11時ころに安産灸にお灸をしたら、痛みが5分間隔で強くなったため、病院に電話し、タクシーでKさんと病院へ。
午後1時に陣痛室へ入りました。
その後、定期的な痛みは続きましたが、夕飯はまだ食べられるくらい元気。
ポークカレーを完食したところで、また痛みが強くなりました。
が、その後子宮口が、あとっちょっととのところでなかなか全開せず、結局徹夜で陣痛室で戦うことに。
朝もまだ全開とまではいかないけれど、もうあとちょっとだからということで、いきむ練習が始まりました。

それで26日午前10時。
あとほんのちょっとで全開だが・・・・ま、開くでしょうということでやっとやっと、分娩室に移動。
それから2時間。
最後には疲労のためか陣痛間隔が広がってしまったため、良い張りをおこすということで、最後に誘発剤を使用。それから5分くらいで頭が出ました。
そして午前11時57分。
出産しました。
大きな産声を聞いたとき、
「生きて生まれてきてくれた」
ことを実感し、泣いてしまいました。
周りにいた助産師さん、お医者さんにお礼を言い、胸に抱かせてもらった娘の重みは、まさに命の重みでした。

その後陣痛室に戻り、安静。
その間に、妊娠前からずっとお世話になっていた女性のお医者さんが来てくださり、お礼を言うことができました。
「今産んだ人とは思えなくらい元気そう」
と言われましたが、その後も順調に回復し、出血量が多かったわりにはしっかり歩いていると驚かれました。


陣痛はめちゃくちゃ痛かったです。Kさんや助産師さんに腰をさすってもらいましたが、半端なく痛く、夜は寝ぼけて泣き叫びました。
そのつらいさなか、私を支えてくれていたのは、お腹につけていた分娩監視装置から聞こえてくる、赤ちゃんの元気な心拍でした。
こんなに長丁場でも、分娩室に入ってからも、常に周りの人から
「赤ちゃん元気ですよ」
と言ってもらえました。
赤ちゃんも頑張って、生まれてきてくれた、ということが実感できました。
分娩の際には、お医者さんや助産師さんたちが、お腹の赤ちゃんに
「こっちだよ、出ておいで」
と常に話しかけてくれていたのが印象的でした。

B群溶連菌が陽性だったため、陣痛開始から4時間おきに抗生物質を点滴。
そのかいあってか、赤ちゃんにも異常はなく、元気に泣きまくり始めました。
出産後すぐに陣痛室で初乳をあげて、本格授乳は翌日から始めました。
まだなれませんが、けっこう元気に吸ってくれます。

結婚してから5年。流産を4回経て、やっとやっとやっと、わが子をこの腕に抱けて、感無量です。
毎日が夢のようです。
昨日予定通り退院し、自宅に戻りました。
Kさんと赤ちゃんを見ては
「かわいいねえ」
と親ばかぶりを発揮しております(笑)。

カプロシンの注射も入院中に終わり、約10カ月ぶりに注射から解放されました。
まだちょっとなれません(笑)。
大変でしたが、それで赤ちゃんが無事育ってくれて、大きく生まれてきてくれたから感謝です。

今後もできるだけブログも更新していきたいと思います。
とりあえず、ご報告まで。


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